[The Musical Offering ~ポリボディと幻声部のリチェルカーレ~]をめぐる対談
仁田晶凱(振付家) × 高橋宏治(作曲家)
カノン、知的な遊び
仁田晶凱(以下省略):今回ドラマトゥルグとして参加してくださっている高橋さんと、一緒に作品を解説するってどうしたらいいかなって考えていたんですけど、話しているのを文字起こしするのが一番ナチュラルでいいんじゃないかなと思って。とはいえ目的は明確で、お客さんに作品を理解してもらうためのものなので、いくつかテーマを用意してるんです。まず、「盛り上がり」についての話しをしたと思うんですけど、こう、最後に向けてどう盛り上がるかとか。
高橋宏治(以下省略):このバロック時代はいわゆる盛り上がり、みたいなものはあんまり重視されていない時代で、これはいわば組曲じゃないですか、いろんな曲がたくさんあって。それからカノンは成立していることが重要であって、正直盛り上がりとかないじゃないですか。そういう時代に作られた曲です。
ただ今回はマルケヴィッチ版(本作ではイーゴリ・マルケヴィチによる編曲版を使用)なので、それをロマン派的に交響曲としてまとめているんですよね。交響曲の場合だとやっぱり盛り上がりっていうのは非常に重要になってきますよね。オーケストラで大人数を使って、一つの起承転結を作るという。しかも全4楽章にまとめているっていうところ。特にベートーヴェンの交響曲を意識している。明らかにそのスタイルで編曲しているので、そういう意味で盛り上がるっていうのが大事かなと。本来はそういうことを考えられていない曲をそういうスタイルでやっているというのは矛盾しているといえば矛盾している。
仁:そこにさらに僕が矛盾を投げちゃったのが、'6声のリチェルカーレ'(本作で使用する1曲目)は音をかけずにやるってしちゃったわけなんです。
高:本来'6声のリチェルカーレ'が一番複雑な音楽で、マルケヴィッチ版では最後の第4楽章にこの曲がくる。
仁:盛り上がるっていうことを考えたときに、カタルシスみたいな、何か揺さぶられる、観客の体の状態が変わる、みたいなことを考えていたんですけど、盛り上がる≒複雑になっていくっていう方が僕的には振付を考えやすいのかなって思っています。
高:バッハ自身はそんなに盛り上がりは考えていないと思います。盛り上がるっていうか、ちゃんと終了させるというか。ご飯をちゃっと残さず食べた、みたいな、残しているものはない、そういうのはありますね。
仁:ちゃんと終わらせる。
高:カノンの楽曲(本作、マルケヴィッチ版での第2楽章)はそもそも終了が決められてない曲もありますが、リチェルカーレ(本作、マルケヴィッチ版での第1、第4楽章)とかトリオ・ソナタ(本作、マルケヴィッチ版での第3楽章)はしっかり終わらせてる。
仁:確かに両極端ですよね。無窮カノン、無限カノン、謎カノンみたいなのがある反面、しっかり終わりが決められたものがあるっていう。
高:まあカノンは半分知的遊びですからね。そこになんかこう美しさを感じられるかと言われたら難しい気がしますが。
仁:上田行ったときに(本作は2022年11月に長野県上田市にある劇場犀の角にて滞在制作を行った)、荒井さん(犀の角オーナー)とも、やっぱり遊びに見えるみたいな話をして。究極の高貴な技術を使った遊びをしているみたいな。で、若干鼻につくというか。
高:アートですよねこの時代の。
仁:それを突き詰めた、みたいな。
高:それの極限ですね。今になってもこれぐらいのカノンを書いてる人っていないですよね。
仁:でもやっぱりそれをしっかりマルケヴィッチが交響曲にしたということですよね。要素だったもの、バラバラだったものをギュッとまとめた、オーケストレーションしたというのが面白いと思うんですよね。
高:マルケヴィッチはそれを変奏曲にしているんですよね。それがなんていうか、全部バラバラに弾くわけにはいかないから。どれぐらいのモチベーションがあってマルケヴィッチが編曲をしたのかわからないですけども、まあなかなかこの曲を編曲しようとは思わないでしょうね。
仁:実はすごい価値のあるスクラップを集めてすごいものを作っちゃった、みたいなことなのかなと思っています。
高:この時代ってストコフスキーとか、バッハの曲をいろんな人が編曲しています。あまり演奏されなくなっていたんですよね、この時代にバッハの曲が。だから当時の新しい技術でもってバッハをちゃんと演奏できるように翻訳しなおして、今でも楽しめるようにしようっていう流れの一環で、「音楽の捧げもの」を今でも聞けるようにと。まあとはいえ滅多に演奏されないですけども。
仁:これ演奏されない理由ってなんですか。
高:まず、やっぱり、盛り上がりがないからだと思うんですよね。
仁:あー。(苦笑)
高:あと楽器指定がされてないので何を使うかが迷うところではありますよね。それからカノンに関してはロマン派の感覚からみるとあまり感動がない。
仁:あー。(苦笑)
高:音楽愛好家からはあまり人気のない曲ですよね。楽譜で見ると面白いんですけどね。
仁:なんかこれ、今回の公演がうまく行って、再演できるってなったら、生演奏で、、、やりたいなー、、、って思ってるんですけど。
高:あーでもできると思いますよ。古楽、いま日本で頑張ってますし。
仁:このマルケヴィッチのバージョンでやるっていうのは、、、。
高:これは編成が、普通のオーケストラとチェンバロとか古典の、、、もちろんお金さえあれば、、、このメンツを集めて、、、うん百万ですね。
あともしかしたらあんまり演奏されないということはオーケストレーションとしてあまり現実的じゃないことをやってるのかもしれないです。楽器の聞こえ方とか。
仁:収録だとやれたけど。
高:音の鳴りがすごい悪いとか、そういう理由があるのかもしれないです。
クリストファーノーランとJ.S.バッハ
仁:あともう一回聞きたいんですけど、インセプションの話あったじゃないですか。
高:はいはい。
仁:あれ確かになと思って、いい例を出していただいたというか。どういう話でしたっけ?あ、インセプションの映画のストーリーではなく。
高:この曲は王(フリードリヒ大王)がバッハに渡したテーマを元に全てが作られています。その8小節のテーマが核になっているんです。テーマから全てができているというのがすごいところなんですが、じゃあダンスにする時に振付の中でのテーマ(動き)がお客さんに伝わっているのと伝わっていないのとでは、この作品を理解できるかできないかが大きく変わってくる。お客さんにその核の部分を分かってもらうにはテーマがシンプルであること。インセプションで描かれていたテーマに照らし合わせて。そういう意味でインセプション(笑)、お客さんの頭の中に埋め込むにはシンプルなほどいい。
仁:洗脳ですね。
高:インセプションの場合はある程度感情にも訴えかけている。
仁:ああそうですね。
高:お父さんの愛が本当はあったというのが大事だったんですよね。それって一文で表せるようなシンプルなアイデアですから。
仁:感情、、、。
高:いやそこまではもちろん今回の作品に関してはいいですけど、小さなアイデアから全てができているという。
仁:それがシンプルなほどいいということですね。
高:映画だとカオスの世界に行っちゃいますからね。これから展開するのに、元々が複雑だとさらに複雑になっちゃう。ただこのインセプションと違うのは、インセプションのようにシンプルなアイデアから全てができているわけではなくて、この曲はテーマに対する対位旋律の方が複雑になっていく。テーマは変わらずずっとシンプル。シンプルだからこそ対位旋律のいろんなリアクションが生まれやすいのかなと。
仁:うんうんうん。なるほど。
フーガとは概念
仁:音楽から振付を考えるみたいなこと一丁前にやってるんですけど、フーガって何?って聞かれて説明するときに、結局ふんわりとした説明しかできないんです。
高:フーガってふんわりとした説明しか音楽辞書には載ってないんですよ。
仁:あやっぱりそれでいいんですか。
高:カノンは厳格なルールがありますけど、フーガは厳格なルールがなくて、だから、同じテーマが何度か出てくるみたいな、そのくらいですよ。
仁:もうちょっとなんかありますか?フーガめっちゃわかりやすく説明するとどんな感じですか、っていう。なんか何読んでも理解できないんですよ、専門用語のシャワーで。
高:なんて書いてあるかな。(調べる)「フーガとは….。ざっくりとフーガは概念に近い。」と書いてますね。
仁:ソナタも近いですよね。
高:そうですね。フーガからソナタができたとも言われているので。
[無言]
高:「フーガとは概念に近い。」って一番しっくりきましたね。
仁:そうですか。
じゃあカノンについてなんですが、町田さんが前に言ってて、あそうかもと思ったことがあるんです。カエルの歌はわかりやすいカノンじゃないですか。輪唱。で、森のクマさんはどうなんだっていう話になって。それはコールアンドレスポンスなんじゃないか、みたいな話になって。
高:ああー。
仁:音が重なって調和するのがカノンであって、
高:次の音の時に休んでいると違うんじゃないか、ってことですね
仁:そうです。
高:でも一応カノンって、僕の'Delay'って曲があったじゃないですか?(高橋宏治作、17 Etudes収録)あれがカノンかディレイかっていう指摘があったんですよね。まあ確かにカノンでもあるし、単に遅れているだけとも言えるし。有名なパッヘルベルのカノンなんかも、あのテーマが最初に全部演奏されて、声部が一個ずつ増えていくだけみたいな感じですよね。重奏的に音が一声部ずつ増えてるだけで、それが1番2番3番4番、、、と演奏されているからカノンになっているんだけど、あれもまあ、確かにカノンだけど楽器が増えているだけだよね、とも言える。カノンの厳密なルールとしては正確に模倣されていないとダメなんです。だから森のクマさんも、ちゃんと同じ旋律を模倣されていればコールアンドレスポンスに聞こえたとしてもカノンです。
仁:なんかちょっと残念ですね。すごい大事なことに気がついた!と思っていたので。
高:コールアンドレスポンスとカノンって結構別で作られたんです。マタイ受難曲でもコールアンドレスポンスがありますしね。
仁:そうなんですね。
高:右の合唱と左の合唱で、こっちから聞こえる、あっちから聞こえるみたいな。
リチェルカーレとリサーチ
仁:フーガの話に戻って、曲名にもなっているリチェルカーレというのは、当時のフーガの呼び方ってことで合ってますか。
高:そうですね。他ではあまり見ないですね。現代でバッハの真似して使っているとかはあるかもしれないけど、僕は聞いたことないですね。
仁:”research”っていう言葉の語源と同じっていうのを聞いたんですけど、どう結びつけられるのかなと思って。
高:バッハはそこはあんまり考えてないんじゃないですか。
仁:あーそうですか。
高:王に捧げるからリチェルカーレにしとこうか、みたいな。まあこの音楽自体がいろんな技術を探求しているようにも見えますけど。
仁:高橋さんちなみにこの本読みました?白水社の。
高:なんですかそれは。
仁:「音楽の捧げ物が生まれた晩」(ジェイムズ・R・ゲインズ著、松村哲哉訳、2014年、白水社)っていう。この楽曲が生まれるにあたっての背景がいろいろ書いてあるんですよ。
高:バッハの時代のことを今から調べてわかるものなんですかね。
仁:どうなんでしょう。よかったら読んでみてください。
高:あとは仁田さんがどうしてこの曲を選んだかが大事じゃないですか、超難曲をまた。
仁:改めていろいろ考えてみました。音楽のレプレゼンテーションとしてのダンスって結構やられてきたというか、特にアンヌテレサですよね、バッハの曲のヴィジュアライゼーションってもう結構やられてきたと思ってたんですけど、本当にそうか?とも思っていたんです。
高:はい。
仁:まだまだやられてこなかったアイデアがあると思っていて、むしろ音楽のアイデアを振付に使えばアイデアが枯渇することはないんじゃないかって思ってるんです。この曲ってカノンについてまさにリサーチされてて、ここで書かれているカノンの一つ一つを見ていけば新しい表現に行き着くんじゃないかみたいな。それがこの曲を選んだ1番の理由ですね。
高:作曲は非常にシステマティックに作られることが多くて、この時代の音楽は特にそうです。どのくらいそれがダンスに反映されるのかが個人的に興味があります。
仁:結局身体が持ってるポエティックな文脈は避けられません。だからこそシステムにしっかり寄り添って、身体の動きにする必要性があると思うし、なにより日本であんまりやられてないですからね。シテキな、ポエティックで、パーソナルな解釈で曲を理解して、そこに、、、魂を乗せるみたいな!(笑)のがずっと日本でやられてきたことじゃないですか。
高:あんまりダンス見てないですけど、なんとなく共通して感じるのは盛り上がりに欠けるというか、あんまり構築的じゃない感じがします。ダンスで構築的ってなかなか難しいかもしれないけど、同じ時間芸術だから、音楽もダンスも時間をどう使うかが重要ですよね。この曲の場合は構成がめちゃくちゃ厳格に決められているので、ある意味そこに委ねちゃえば自動的に構成は心配しなくていいってことになりますよね。
仁:全てがきっちりしている訳でもないのが、僕にとってのこの曲の好きなところです。カノンの楽曲は厳密なルールをもとに書かれた反面、トリオ・ソナタなんかは即興演奏から書かれたそうですね。今回振付のなかで、非常にざっくりとした棲み分けですが自由さと厳格さみたいなものを使っていて、そのコントラストは作っていて楽しい要素でした。この楽曲の解釈をモダンダンスというメディアを通して、できるだけ多くの人に見ていただきたいと思っています。
2023年3月
編集:仁田晶凱